旧事本紀研究会
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今日のふるごと -23-

推古11年春二月、将軍来目皇子 軍を遂ぐること能わずして築石に薨ず。太子、謂て曰く。時以て未だ事成るに至らざるを知るべし、と。即ち勅して軍を還す。
 冬十月 天皇 小墾田宮(註・奈良県高市郡朝日村)に還りませり。天皇は諸僧に勅命して安宅経を宮に講じしめ給へり。太子、奏して曰く。先軌(さきつのり)を何ぞ軽んぜむ。先ず火焼の祭りを修めて後に御意に随いせむ。之によって庭上を荘(かざ)り厳かに火焼の祭りを修いて、忌部、卜部を左右の場に立て、殿上に壇を造り、僧等は経を修むるに神風頻りに吹き、大麻(おおぬさ)颯颯(さざめき)神の降臨したまうさまは火上に露れて奇しく、炎太く直く上り一丈半量りなり。

「聖皇本紀下の上」より

新羅討伐のため出兵した来目皇子の道半ばでの薨去は推古十一年春二月四日(西暦603年、太子36歳)、河内埴生山の岡(現在の大阪府羽曳野市)に葬られた。続いて来目皇子の皇兄、当麻皇子が代わって大将軍となり出発され、秋七月三日に播磨まで行った頃、その皇妃が明石で薨ずるということになり、時熟さずば事成らずという太子の言葉により天皇は遂にこの征戦を中止されるに至った。
 天皇が小墾田宮へ移られるにあたり僧侶を招じての祈祷をされようとしたが、太子の助言により庭上で穢れを祓い無心になり天空の神と一つになるための火焼祭が行われることになった。齊元道の忌部家右に宗源道の卜部家が左に侍り、神明の炎は見事であった。それから僧侶による読経が行われた。
ここで注目すべきは安宅経を講じようとした天皇へ奏上した「なにゆえに神道の先つ代からの決まりごとを軽んじて仏教儀式を用いられますか」という御言葉。さらに安宅経を当時の仏教僧侶が用いたかどうか等検証すべき点がある。(尚、この記は日本書紀には書かれていない)
*聖皇本紀には後世の仏教者による加筆ではないかと疑われる記述が他巻に比して多く見受けられる。経教本紀という太子の著に鑑みて先代旧事本紀大成経全体を読解すると、それらの記述を鵜呑みにはできず信憑性が揺らぐ。
現在、太子ゆかりの地をはじめ仏教界では聖徳太子1400年御遠忌の行事真っ最中、太子は仏教興隆に尽くし仏教に帰依したかのように伝えての御遠忌法要に「何ぞ軽んぜむ」との声が聞こえる人は多くはないだろう。だが太子は、鼎の足のように三法で一つ、一法のみでは立たないことを重ねて説かれた。出兵か撤兵かの判断もそこに因ったものである。

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