旧事本紀研究会
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今日のふるごと -13-

冬十月。法興寺成る。(註・奈良県高市郡明日香にある元興寺の古名、真言宗、飛鳥寺ともいう)。この日勅令し、恵慈、恵聡をして始めて法興寺に住(とどまらし)めり。
 太子、天皇に聞(もう)し、無遮会を設け、既にして夕時、一の紫雲有りて花蓋の形の如くして上天より降り、圓ろかに塔上を覆い、また、仏堂を覆い、変じて五色となる。或いは龍鳳の鳴吟となり、或いは神仙の言語となり、やや久しくして西に向かって去る。
 太子曰く。天に感(ひびく)故にこの祥有り、但し三百年ののちは草露に衣を霑(うるお)し、五百年の後には塔殿も廃亡(ほろび)む、と。

「聖皇本紀」より

法興寺の寺名は太子の理想を表した名といえる。また、生者必滅会者定離を誨える寺の盛衰をも予言されている。法興寺は初め崇峻天皇元年、物部守屋誅伐の時に馬子が誓願を興す。渋川の役、已に散じて後にこの寺を建立した。五年十月に仏殿及び廓廡を造る。推古天皇元年、春正月に塔を造る、九年を経て落慶した。
無遮会とは梵語には般遮干苾★、或いは般遮跋利沙という漢語に翻訳したもの。五年に一度、親疎貴賎を問わず平等に大施を行じ、或いは飲食或いは浴室などを施興することをいう。紫雲は慶雲をいい、景雲、卿雲ともいう。(孝経、史記)花蓋はハナガサ。
三百年は醍醐天皇、延喜元年辛酉まで。五百年は凡そ堀川天皇康和四年壬午までとなる。推古四年の落慶から約百二十年後、元正天皇霊亀元年には奈良へ遷り元興寺とし、桓武天皇の時には平安京に遷都されたため奈良は愈々古京となった。寺は荒廃の一途を辿り、堀川天皇の御代には殿堂は廃れ塔が一宇ばかり民家の間に残る有様となった。天皇弑逆の罪について蘇我氏の滅亡を予言した太子の言葉もここに重ねて考えると、寺の荒廃もまた運命といえる。

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