6月課題の提出文から一篇を会員ページに掲載しましたのでご参照ください。ともすれば陥りがちなワンパターンの推測とは別の世界へと踏入り、源宗先生の教えを受けた後にさらに薄皮をめくるようにそっと謙虚に魂に触れようとしていく課程と結果が綴られています。
降霊の実践を書くというのは極私的な内容でありながら、そこに「真の信」を見いだしていなければ表面をなぞっただけのものになります。「どこかで観たような、聞いたような言葉」が繰り返し交わされ進展しないのは自分自身の体験知に基づいているからです。正しい知識と経験、感受性が求められるのですが、それは物識りというのとは異なりその人の心の透明さなのです。境(みのえ)の粋と言えばいいでしょうか。鳥居の説明にあったように。
そこに在る者に通い合うまっすぐな根気が足りず、自我でいっぱいの妄想で「できない」と締めてしまう。これを繰り返している間にも日々人は生きてあり、成仏していない霊魂の「時」は狭い想念の壁に閉じ込められています。それは生きている自分とどう違うのでしょうか。宗徳経「五大」に教えられている生死は、「人として初めに誕(うま)れ、竟(おわり)に没(まかり)無しということ無し。経るところの春秋は是、生大なり」とあります。そして「死大は人の生涯の大果なり。これを得てこれを了ること極めて軽からず。死を穢さず、死を猥さざるは是れ人の道なり」とあります。義をもって相対すべきご先祖を敬い想うことなくして、神に何をか願うというのでしょうか。すべては廻り、ひとつながりの命であることを教えているのが神道であり眞洞への道です。